川中島&善光寺

20110911-0912の二日間にかけて長野県へみゆちゃんとお出かけしてきました。
NHK大河に感化されてどうしてもこの古戦場を見たかったのです。
そして待望の信玄&謙信一騎打ちの銅像を撮影!


風林火山の旗!いやがおうにも気分が盛り上がります!

































銅像の左には「首塚」があり、

読みは「くびづか」、「こうえつじきせんのち」の石碑。
永禄4年(1561)の決戦のあと、海津(かいづ)城将であった高坂弾正(こうさか・だんじょう)が、戦場に残された6千とも8千とも言われる遺体を敵味方なく集めて手厚く葬ったとされる塚。

義に篤い上杉謙信高坂弾正の行動に感激し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と、北条・今川の包囲網によって塩を絶たれて困っていた甲斐の国に塩を送ることを決めたという逸話は、「敵に塩を送る」のルーツでもある。
以前はこの附近にいくつもの首塚があったが、現在、塚が残るのは2つのみ。しかし、塚を壊して田畑にした者は、悪い病気にかかったり、気がふれてしまうこともあったという。





http://www.zenkoji.jp/index2.html
翌日は善光寺に!
源頼朝や北条一族にも篤い帰依(きえ)を受け、全国に広く信仰を集めていた大霊場。信玄は弘治元年(1555)に、ご本尊(一光三尊阿弥陀如来)はじめ什宝(じゅうほう…家宝として秘蔵するもの)、寺僧に至るまで善光寺甲府に移した。善光寺信仰を権力のなかに取り込むことによって、自らを権威づけ、領国支配の手段にしようとしたのである。

 武田氏滅亡後、ご本尊は、織田信長徳川家康豊臣秀吉と渡り、流転を重ね、42年後の慶長3年(1598)、信濃に戻るという数奇な運命をたどった。大勧進(だいかんじん)の霊牌堂には、徳川家・真田(さなだ)家の位牌のほかに、信玄・謙信の位牌が並んで収められている。

 宝永4年(1707)により再建された本堂(国宝)は、江戸時代中期の仏教建築を代表する傑作。約1400年の歴史を刻み続け、宗派を問わずすべての信徒を受けいれる庶民信仰の寺として、今も全国からの参詣者が絶えない。

美幸ちゃんがC4につけるお守りをくれました!本当にうれしかったなぁ★
ママからプレゼントされた念珠!かっくいぃ★